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サントリー美術館
サントリー美術館
東京都港区赤坂9-7-4 :六本木・東京ミッドタウン ガレリア3階
「東京ミッドタウン」 21世紀の日本を代表する街、世界に類を見ない独創的な街が誕生しました。


Miyagawa Kozan Retrospective

欧米を感嘆させた、明治の陶芸の名手。

没後100年 宮川香山

「美術としてのやきものづくり」 そして 「日本固有の美の保存」 を追求し続けていた。

 明治時代から大正時代を代表する陶芸家・宮川香山 (虎之助: 1842~1916) は、天保 13年 (1842)、京都の真葛ヶ原 (現在の京都市東山区円山公園一帯) の陶工の家に生まれました。 幼少の頃より父・長造 (1797~1860) から陶器や磁器の製法を学び、万延元年 (1860) に家督を継ぎます。
 明治 3年 (1870)、転機が訪れます。 香山は京都を離れ、文明開化の町・横浜へと向かいます。 当時、明治政府は近代産業の育成に力を入れ、外貨獲得の手段の一つとして陶磁器をはじめ、様々な工芸品を輸出することを奨励していました。 香山は、欧米諸国の趣向に応える新たな美を創り出すことに尽力し、中でも、陶器の表面をリアルな浮彫や造形物で装飾する 「高浮彫」 という新しい技法を生み出し、日本陶磁における装飾の概念を覆すような、精緻で独創的な世界を作り出していきました。
 明治 10年代半ば頃から、香山は新たに釉薬と釉下彩の研究に取り組み、中国清朝の磁器にならった様々な技法の作品を作り始め、制作の主力を陶器から磁器に切り替えていきました。 そして明治 29年 (1896)、香山は、陶芸の分野では二人目となる帝室技藝員に任命されます。
 宮川香山の眞葛焼は世界中から絶賛を浴び、人気を博しました。 大英博物館 (イギリス) をはじめ世界的に著名な美術館が香山の作品を収蔵していることからも、その人気の高さが窺えます。

 本展では、約 50年にわたって当時日本に少なかった眞葛香山の作品を世界中から探し出しつつ、真葛香山研究を続けてこられた田邊哲人氏の、質・量ともに国内随一を誇る貴重なコレクションを中心に、平成 28年 (2016) に没後 100年を迎える宮川香山 (初代) の 「眞葛焼」 の全貌を紹介し、超絶技巧のやきものの魅力に迫ります。 高浮彫作品の目くるめく迫力、そして釉下彩の青磁などの吸い込まれそうなみずみずしさと優美な品格を、一挙にご堪能いただけるまたとない機会です。


会期: 2016 2/24(水)~ 4/17(日) 展覧会は終了しました。
休館日:毎週火曜日
開館時間:10時~18時 (金、土および3月20日(日)は 20時まで開館)
   ※いずれも入館は閉館30分前まで ※shop x cafe は会期中無休

会場:サントリー美術館 六本木・東京ミッドタウン ガレリア3階



'2016 2_23 「没後100年 宮川香山」」 展のプレス内覧会の会場風景です。
画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。

「宮川香山」展

「没後100年 宮川香山」展
プレス内覧会 & プレス説明会
サントリー美術館 '2016 2_23


欧米の博覧会で数々の受賞と絶賛を浴びた香山独特の 高浮彫 をお楽しみください

「展示構成」
本展覧会 「没後100年 宮川香山」 展 図録、「News Release No. sma0016」 「Newsletter vol.259」 より抜粋して掲載しています。

「展示構成」
 展示総数約 140点の作品は、香山の 50年以上にわたる焼物造りの人生で、比較的初期の 「高浮彫」 の作品と明治 10年後半以降に作られた磁器の作品を 3章の展示構成でのご紹介です。
第1章 京都、虫明そして横浜へ
第1章では、宮川香山の若い頃の作品で、京都時代・虫明時代の茶道具類、さらには横浜眞葛焼 草創期の、粉彩の作品のご紹介です。
第2章 高浮彫の世界
この章では、陶器の表面をリアルな浮彫や造形物で装飾する、香山独特の新しい表現方法として確立された 「高浮彫」 を駆使した作品の展示です。
第3章 華麗な釉下彩・釉彩の展開
第3章では、優美で華麗な 「釉下彩・釉彩の眞葛焼」 を中心に、高い次元の研究と技術による作品の展示です。


《青華赤絵鳳凰図獅子鈕香炉》

第1章 京都、虫明そして横浜へ
 宮川香山 (虎之助: 1842~1916) は、天保 13年 (1842)、京都で陶業を生業とした眞葛長造 (1797~1860) の四男として生まれました。 長造は、青木木米に就いて製陶を学び、仁清写しなどの茶器制作を得意していました。 長造は、後に眞葛ヶ原に築窯したことから安井宮より 「眞葛焼」 の称を、華頂宮より 「香山」 の号を与えられています。 父・長造の下で製陶を学んだ虎之助は、万延元年 (1860)、父や兄が亡くなったため若くして家業を継ぎ、当初は茶道具などを制作していました。 明治元年 (1868) には、岡山藩の家老で茶人の伊木忠澄から請われ、備前虫明 (現在の岡山県瀬戸市邑久町虫明) へ赴き、制作の指導にあたっています。 そして明治 3年 (1870) に横浜に移住、野毛山に窯を築きました。 あくる明治 4年 (1871) には、大田村不二山下 (現在の横浜市南区庚台) にて、本格的に輸出陶磁器の制作を開始します。 その窯が、明治、大正、昭和にわたって横浜に花開いたやきもの 「眞葛焼」 の始まりです。

右端・1 《青華赤絵鳳凰図獅子鈕香炉》 一合 江戸時代末期~明治時代初期(19世紀中期) 総高 21.8cm 田邊哲人コレクション

 ・1 飛翔する鳳凰の赤絵を側面に、獅子形の鈕を載せた蓋付き、高脚の香炉。 京焼の父・眞葛長造のもとで修業し、19歳で家督を継いだ香山は、1866 (慶応 2)年には染付金襴手の煎茶器 50点を、朝廷への献上品として制作依頼されるほどの技量を備えた。


《高浮彫桜ニ鷺大花瓶》

第2章 高浮彫の世界
 開港して間もない横浜へ移住し、陶磁器の制作を始めた宮川香山は、すぐに高い評価を得ました。 そして、明治 9年 (1876) に開催されたフィラデルフィア万国博覧会や、明治 11年 (1878) に開催されたパリ万国博覧会など、国内外の博覧会・展覧会で受賞したことによりその作品は称賛を浴び、一層人気を集めるようになります。 その中で香山独特の表現方法として確立されたのが、陶器の表面をリアルな浮彫や造形物で装飾する 「高浮彫」 という新しい技法でした。 当時、海外で好まれていた薩摩焼の金襴手には多くの金が使用されていたことから、高額になること、また貴重な金が海外に流出してしまうことを防ぐなどのために、独創的な技法 「高浮彫」 は生み出されました。 この緻密で装飾性の高い技法によって、鶉・鷹・鳩などの鳥、桜・蓮・葡萄などの植物、猫・熊などの動物、鬼や擬人化された蛙など、色々なモチーフが立体的にそして写実的に表現されています。
 今日、日本国内にあるこうした高浮彫作品は、一点一点が海外からの貴重な里帰り品です。 香山による新たな創造に、高い技術が相まって生まれた独自の世界は、日本磁器史上において燦然たる輝きを放しています。

右端・28 《高浮彫葛ニ山鴫花瓶》 一口 明治時代前期 (19世紀後期) 高 39.0 口径 11.8cm 幅 21.4 底径 13.0 田邊哲人コレクション
【左・26 《高浮彫南天ニ鶉花瓶》 (一対) 明治時代前期 (19世紀後期) 高 (右) 40.0cm (左) 40.0cm 田邊哲人コレクション (神奈川県立歴史博物館寄託)】

 ・28 葛紅葉、色づいた葛の葉に山鴫が口遊み、他の一羽の山鴫は葛の原に佇む秋の情景で、羽根など精密に描かれた山鴫が高浮彫であらわされている。 これまでの工芸品の表現は文様が主で、写実的表現はあまりありませんでした。 「高浮彫」 で、香山がモチーフとした身近な自然、花鳥や昆虫の写実性が、海外の人を驚かせたのです。


《高取釉高浮彫蟹花瓶》

第3章 華麗な釉下彩・釉彩の展開
 明治 10年代半ば頃から、香山は新たに釉薬と釉下彩の研究に取り組み、釉下彩をはじめ、中国清朝の磁器にならった青華、釉裏紅、青磁、窯変、結晶釉などの作品を次々と世に送り出し、眞葛焼の主力製品を陶器から磁器に切り替えていきます。 眞葛窯の経営を嗣子・半之助 (二代宮川香山: 1859~1940) に継がせ、自身はさらに古陶磁や釉薬の研究開発に打ち込みました。
 釉下彩をはじめとする新たな作品も、パリ万国博覧会 (明治 22年、 1889) やシカゴ・コロンブス万国博覧会 (明治 26年、 1893) など国内外の博覧会でまたも高い評価を獲得しました。 こうした功績が認められ、明治 29年 (1896) には、陶芸界では二人目の帝室技藝員に任命され、名実ともに当時の日本陶芸界の第一人者となっていきます。 以後も積極的に様々な技法の研究に取り組み、新たな挑戦を続けていましたが、大正 5年 (1916) 5月20日 (75歳)、日本の陶芸史に偉大な足跡を残した宮川香山は、その生涯を閉じました。

前・139 《高取釉高浮彫蟹花瓶》 大正 5年 (1916) 幅 40.8 x 36.3cm 田邊哲人コレクション (神奈川県立歴史博物館寄託)
【後・45 《高浮彫孔雀ニ牡丹大花瓶》 (一対) 明治時代前期 (19世紀後期) 高 (右) 74.5cm (左) 74.2cm 田邊哲人コレクション (神奈川県立歴史博物館寄託)】

 ・139 現在、日本で知られている蟹の作品 3点の内、最晩年の傑作で、口縁に貼り付く二匹の蟹をリアルに表現、甲羅の青緑にかかった斑点文様や、脚や節、爪先の青や赤も鮮やかで、大変高い技術を要する。 高浮彫と釉下彩の両技術を駆使した、香山こだわりの大作である。


「宮川香山と中国陶磁」 出川 哲朗 (大阪市立東洋陶磁美術館 館長) 「没後100年 宮川香山」図録からの抜粋文章です。

  横浜で開窯した 1870年(明治 3年) ごろからは、輸出用に装飾性の高い陶器を制作して華々しい成果をあげた。 1876年 (明治 9年) フィラデルフィア万国博覧会で多数出品し、装飾陶器の部で受賞している。 その後、1877年 (明治 10年) 第1回内国勧業博覧会、1878年 (明治 11年) パリ万国博覧会、1879年 (明治 12年) シドニー万国博覧会、1880年 (明治 13年) メルボルン万国博覧会、1881年 (明治 14年) 第2回内国勧業博覧会、1883年 (明治 16年) アムステルダム万国博覧会、1888年 (明治 21年) バルセロナ万国博覧会と毎年のように、出品し受賞を重ねていった。 ヨーロッパではシノワズリーのあとを受けて、19世紀後半からの日本趣味 (ジャポネズリー) が流行していたころである。 シノワズリーは中国の輸出用の陶磁器をはじめとする工芸品や家具などによって、バロックからロココ時代にかけてヨーロッパの宮廷などで大流行したもので、装飾モチーフともなった。 しかし、日本趣味の流行とともに、「ジャポニズム」 と呼ばれる芸術作品がヨーロッパで生まれ、1867年 (慶応 3年) のパリ万国博覧会には浮世絵風の図柄のある食器がフランスのフェリックス・ブラックモンのデザインによる制作で出品され、ジャポニズムの陶器制作が流行している。 日本趣味は、それ以前にも伊万里の金襴手をさきがけとし、ヨーロッパ各地の窯や中国でも伊万里の倣製品も作られた。 19世紀半ばになり、浮世絵などに触発された絵画などが制作され、日本の陶磁器や漆器などに対する関心が高まっていった。…
 …明治時代に日本の輸出をささえたのは生糸や茶、石炭であったが、陶磁器もまた香山らの努力により、主要な輸出品として大きく成長し、工芸品では和紙、漆器とならぶ主要な輸出品となっていった。 1876年のフィラデルフィア万国博覧会において、清朝政府は公式に人を派遣し、出品を行なった。 中国の生糸、茶、陶磁器、七宝は、日本からの出品と同様に、好評で特に陶磁器は売り切れるほどであった。 しかし、かつての絶大なるシノワズリー人気はなく、欧米ではジャポネズリーへと関心が移行していた。 ヨーロッパの各窯から出品されていた陶磁器とならんで、ヨーロッパ向けの日本陶磁もまた、高く評価された。 日本の精緻で金彩が使われた陶磁器が評判となっていたのである。 この流れの中で、香山の作品も高く評価された。…

 「田邊哲人コレクション」 田邊氏は、昭和40年前半、20代の頃より香山の研究を始め、当時まだ日本には少なかった香山の作品を世界中から探し出し、実物の作品から研究を深めてこられた、香山研究の第一人者である。 香山のコレクションは初代香山が制作した作品や二代以降の作品、その関連作品等多岐にわたり、そのコレクションは千点以上にも及び、数多くの作品を比較、検討することによって香山の実態に迫ってきた。 中でも香山が横浜に移住してきた初期の頃に制作されたものである 「高浮彫」 の作品は、昭和時代までは日本で見ることは殆ど出来なかった作品であるが、これらの作品を積極的に海外から里帰りさせ、その代表的な作品を今回展示出来たことは、香山の全貌を知るためには重要なことである。


お問合せTel:03-3479-8600
サントリー美術館公式サイト:http://suntory.jp/SMA/
主催=
サントリー美術館、NHK、NHKプロモーション、読売新聞社
協賛=日本写真印刷、三井不動産、サントリーホールディングス
協力:神奈川県立歴史博物館

サントリーホールディングス株式会社は公益社団法人サントリー芸術財団のすべての活動を応援しています。


参考資料:NEWS RELEASE No.sma0016、Newsletter vol.259、「没後100年 宮川香山」展 図録、他
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